皆さんは人から自分のしていることが間違っているとか、こうしたほうが良いといわれるとどう反応しますか。おそらくまずは抵抗感が生まれるのではないでしょうか。その人にそんなことを言う資格があるのか。あなたの知ったことではないとか、、、

でも、その人が完全な能力をもって、完璧な権威をもって、かつ人格的にも間違っていないとしたら、その人の助言とか忠告を聞こうと思うのではないでしょうか。

イエスキリストはそういうお方なのだという事を、私たちはどのくらい自覚しているでしょう。

今日はイエスの話を聞いていたある群衆が、そんなイエスに、自分の問題を解決してほしいと声を出すところ始まります。

13,群衆の中の一人がイエスに言った。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」

遺産を分けるように、兄弟を説得してください、、、兄弟がずるくて、遺産をちゃんと分けてくれないのか。自分が資格がないのにもらえるハウだと思っているのか、わかりませんが、遺産相続をめぐって、親や兄弟でもめることは、もうたくさん起きています。

1,イエスは裁き主である。

この男は、なぜイエスにそのようなことを要求したのか。この男は、イエスがメシアではないかと考えていたのだ。

詩編で、メシアが千年王国で裁き主として働くことが預言されている。このことを知っていた

究極の裁きを行われる方がいらっしゃる

ルカ12:5,恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。

“律法を定め、さばきを行う方はただひとりで、救うことも滅ぼすこともできる方です。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。”ヤコブの手紙 4章12節

だから、あなたがメシヤなら、私の困っているこの問題を裁いて解決してくださいといったわけです。

この群衆の男は確かに旧約聖書を、裁き主が来ることを知っていました。イエスは確かにメシアであり、裁き主として再臨されるのです。

2,本当の裁き主を、人々が拒否する

イエスは答えられます。

14,すると、イエスは彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」

でもイエスはその男の依頼を断られました。なぜでしょうか。まだその時ではなかったのです。千年王国においては、イエスはそれを行われたでしょう。でもその前にすべきことがあったのです。それは十字架の御業です。

そして、イエスは十字架の元凶になった人々の罪を指摘するんです。

かつてモーセが言われた言葉を使って答えられます。

彼は言った。「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を 殺したように、私も殺そうというのか。」そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知られたのだと思った。”         出エジプト記 214

 モーセはヘブライ人の救世主気取りで、ヘブライ人のけんかを止めようとしたときに、そのヘブライ人から、殺人者のお前に、裁き人となることを依頼したことはないと拒絶されたのです。モーセは追及を恐れて、逃げます。それから40年間もヘブライ人の間から姿を消すのです。

 モーセは自分が救おうとしているヘブライ人に拒否されたのです。

イエスも、今自分が救おうとしているヘブライ人から拒否されているのです。だから、誰が私をあなたたちの裁き人に任命したのか、任命するどころか拒否しているではないかと皮肉を言われたのです。

 その結果、イエスも、ヘブライ人の前から姿を消すことになるのです。今度は、ただ逃げるのではなく、十字架を受けて、死ぬという方法で、、、ですから、この言葉は、あなたたちが私を拒否するから、自分はいなくなるという自分の未来についての預言の言葉でもあるのです。

本当の裁き主を拒むという事がいかに、重大なことであるのかを覚えなければなりません。

「わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。」             ヨハネの福音書 12章48節

3,イエスがメシアである事を、自分の欲望のために使うな 

15,そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

  本当の裁判官は 貪欲に気をつけよと忠告されます。貪欲というのは、もっと多く持ちたいという願望です。この願望を持っていない人はいないでしょう。少しでも多く財産を保有しようというところに現れます。でもイエスはそれに気をつけよといわれるのです。なぜなら、いのちは財産にあるのではないからです。

モーセの十戒を見た時、6-9は誰でも罪だと簡単に認められます。

モーセの十戒:10番目 20:17 「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ロバ、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」

貪欲という言葉はみなよくないことであると知っていますが、実際それが危険であることを認識している人はほとんどいません。むしろ人生にどん欲になれというなど、ポジティブな意味で言われます。そういう人は今の時代、こういうなぜかプラスに取り上げられる傾向があります。意欲的な人、積極的な人といわれている人の多くが貪欲に生きているのではないでしょうか。

でもこれは罪なのです。自分の限界に挑戦するというのが罪なのではありません。貪欲の根本原因は何でしょう。それは不安です。どんなに持っても不安になる、なぜ不安になるのか、神から離れるからです。神から離れる、だから罪なのです。

イエスは言われます。人の命は財産にはないと、神にあるのです。

いのちという言葉、それはギリシャ語のゾーエです。

地上のすべての命は、神の自ら存続する命から起こされています。神様は命を贈り物として人々に分けてくださっているのです。命というのは、神様から与えられているものである。だから人の命は神にあるというべきなのです。それは、神様と関係しているものであって、財産を増やしたとしても、いのちには何の関係もない。

財産が有れば、いろいろな良い治療が受けられるから命が長く保てる可能性が上がるという人もいるかもしれません。

自分でできることをするというのは、ある線までは良いことです。しかし、神の領域を存在を忘れるほどになるのは、本末転倒なのです。まず神があるべきなのです。

 人の魂は、神の命があるから存在していることを忘れてはなりません。

そしてイエス様はたとえ話をされます。

16,それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。

17,彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』

18,そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。

19,そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』

20,しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

21,自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」

この金持ちは、倉を持っていることから、かなり裕福だったと思います。当時の多くの人は農民でした。自分の土地を持っている農民もいれば、土地を借りて耕作している人もいました。彼らは自分の収穫が少しでも増えないか、耕作地が大きくできないかという事を願っていました。収穫が増えれば、生活が楽になると思ったからです。そんな彼らにとって、この金持ちは妬みの的だったと思います。

今の有名人、プロのスポーツ選手そういう人への私たちの感情と似ているものを持っていたのです。

 金持ちは金持ちで、それをどこに蓄えておくかという事に悩みを持っていたのです。今の億万長者もそれらの資産をどこに持っておくかで悩みます。それなのに、もっともっとと資産を増やすことを求め続けるのです。

ここで魂という言葉に注意しましょう。魂:これはpsyche、これは自分が自分であるところのものです。神様がゾーエなる本源的命を分けてくださるために息を吹きかけてくださった結果生まれるのが魂なのです。

だから、この魂も、神様から離れては藻屑と消えていくものにすぎません。でも、この金持ちはそのことを理解していなかったのです。自分の死を考慮していなかったのです。自分の命はどこまでも続くと仮定してしまっていたのです。神様の一息で与えられた命は、神様の一息で消されてしまうことを理解していなかったのです。

神様は、この男のことを、愚か者といいました。「愚か者は、心の中で神はいないと言う。彼らは腐っていて、忌まわしいことを行う。」詩編14:1    愚か者は、神を除外して考える人です。

神に対して富むという事

イエスがメシアであり、裁く方であるという事を計算の中に入れ、自分の命が神からの息吹に寄っているものであることを知るなら、自分に与えられているものをどう使うか、自分の時間をどう使うか、というときにイエス様に相談すべきなのです。そして命を与えてくださった神様の栄光のために使うのです

 自分の蔵に蓄えるのではなく、それをほかの蔵、永遠に残る倉に蓄えられれば、本当に富むことになります。それが神に対して富むという事です。それを聖霊が教えてくださるのです。貪欲でないか、聖霊に聞いてみましょう。

 キリストを信じていても、どん欲に支配されている人が少なからずいるようです。そういう人はどうなるのでしょう。

アイスホッケーは興味深いスポーツです。格闘技でもあるし、スピード競争でもあるし、、、ペナルティーボックスというのがあります。選手がルール違反をするとそこに入れられるのです。その選手は入っている間ゲームを見ることはできます。でも参加できないのです。ルール違反の程度によってどのくらい長くいるかが決まってきます。

 これはキリストがクリスチャンを裁くときの様子に似ています。クリスチャンは白い御座の裁きを受けて地獄に行くことは免れますが、どのように生きたかによって懲らしめを受けるのです。(2cor5:10  1cor 12:12-15, Rom 14:10)キリストの御座での裁きといいます。

みこころに反したクリスチャンはペナルティーボックスに入れられるのです。あくまでも神のチームには入っているのですが、そのチームにいる特権を受けられないのです。神のチームの一員として参加できないのです。どのくらい肉によって生きてきたかによって、その懲らしめの時間の長さは決まってきます。

 

神のチームの一員として、胸を張っていたくないでしょうか。貪欲の誘惑を受けた時、本当の裁判官であるキリストの忠告を聞いて、聖霊に従ってみましょう。一回従ってどうなるかよく見てみることです。そして2回、3回と続けてみるのです。祈りましょう。

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」ヤコブの手紙 1章12節