Post Modernism

「Post Modernism は、形を変えたマルクス主義である。」カナダの臨床心理学者Jordan PetersonがEpoch TImesのインタビューで語っていた。今日はpost modernismについて考えたい。

私が大学生の頃、1980年代、経済学部の授業は、近代経済学が主流であり、マルクス経済学はかろうじて存在している程度のものであった。古典的なマルクス主義は経済に目を向けていた。プロレタリアート対ブルジョワの戦いであり、その対立がある限り、プロレタリアートは搾取され続けるので、革命を起こさなければならないというものだった。しかしこれは、ことごとく失敗する。スターリンによる大粛清によって78万人が殺され、300万人以上の人々が餓死するなど、最悪の結果をもたらしただけであった。しかしこういう事態は歴史の授業の中でほとんど教えられていない。

質の悪いことに、この失敗を受けて、彼らは消えたのではなかった。彼らは外見を変えるのである。それがPost Modernismである。1983年に現代フランス思想を俯瞰した「構造と力」を発刊した浅田彰などが、日本でニューアカデミズムともてはやされた。「神は死んだ」と言ったニーチェから始まり、サルトル、ミシェル・フーコー、ラカン、そして脱構築(Deconstruction) を上げるジャック・デリダの名前が知識人の間で流行となった。しかし今思えば、このDeconstructionに代表されるPost Modernismこそ、今私たちが直面しているLGBTQやBlack Lives matter、そしてトランプのMAGAに反対する動きを説明する思想的背景になっているのである。このPost Modernismは、マルクス主義の仮面のすげ替えにすぎないことを、どのくらいの人たちが理解していただろうか。Black Lives Matterの指導者はマルクス主義者であることを認めたことは記憶に新しい。彼らはプロレタリアート対ブルジョワの対立の代わりに、抑圧されるものと、抑圧するものという図式を持ち出す。そして社会の中でそのような可能性のあるものをすべて持ち出して来てはそれらを破壊しなければならないとするのである。彼らは神と人間、国家、家庭、男女、親子など伝統的な価値感すべてを嫌悪する。女性と男性、子供と大人、、。ロゴスの支配、神の支配、そういうものを打ち破る必要があるというのである。ここに見られるのは、徹底した力への欲望である。ニーチェに「権力への意思」という著作があるが、まさに彼らはこの権力を持つことを欲望しているのである。

Petersonによれば、彼らは大学を占領し教育を占領して、次世代の子供の洗脳を行っている。そして恐れるべきことに、教会をも洗脳しているのである。リベラリズム、愛という響きの良い名前のもとに。一般の企業にも、洗脳の触手を伸ばしている。それぞれの企業に入っていって、男女の割合、LGBTQの社員の数などを分析し、それらが偏っていると判断すると、差別をしていると訴え、研修と称して洗脳を行うというのである。

ここに見られるのは、徹底した個人の軽視、すべての個人を同じに扱い、個人の独自性を認めない考え方であり、個人はあくまでも数字にすぎない、あくまで集団重視の考え方なのである。

私たちは今このような思想に対抗すべき思想的基盤を広めなければならない。そのために、私たちはまず歴史上の真実を見つめなければならない。HistoryはHis Storyだと言った人がいたが、まさにそれは神様の物語なのである。聖書を読めばわかるように、人間はことごとく神に反抗してきた。私たちは今こそ悔い改め、神様が与えてくださった価値観を取り戻し、神を礼拝し、父と母と子からなる家族を大切にする価値観、男女のそれぞれの価値を尊重する価値観を再建しなければならない。そのためには、声を上げることである。恐れて、黙っていては状況は悪くなるばかりである。

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noahuehara

I am a pastor of Mikuni Bible Fellowship.

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