1,主が飢饉を起こされる
1,エリシャは、かつて子どもを生き返らせてやったあの女に言った。「あなたは家族の者たちと一緒にここを去り、とどまりたいところに、しばらく寄留していなさい。主が飢饉を起こされたので、この国は七年間、飢えに見舞われるから。」
2,この女は神の人のことばにしたがって出発し、家族を連れてペリシテ人の地に行き、七年間滞在した。
サマリアの飢饉が、ツァラ―との4人とアラムの軍隊によって回避されたと思ったら、今度はさらに規模が大きく長い飢饉、主が飢饉を許されるというのがまず第一のカギである。自然に飢饉になったのではないのである。
主は宣言された。今度は7年もの長い飢饉になるというのである。この飢饉の理由は何であろうか。シュネムの女はペリシテの土地に行って食べ物にありつけた。ペリシテの地は飢饉ではなかったということである。ペリシテはイスラエルに近い土地であり、そこが問題なくてイスラエルだけの飢饉ということから考えると、自然的な飢饉ではない可能性が高い。その理由はおそらく人々の背教である。英語でApostacy、
エリヤの時代にも大規模な飢饉はあった。でもその時も3年ほどの飢饉であった。が今度は7年の飢饉だという。悪化しているのである。悪を行ったアハブからイスラエルは下降の道をたどり続けていたのである。悪ということを私たちは簡単に考えてはいけない。
今、なぜこんなことがまかり通るのかという事態がいろいろ置き続けていることに、BLMの暴動、defund police, Human Trafficking, 選挙、はやり病、マンデート、なんでこんなことがまかりとおるのか理解できない。おかしい。なぜ大多数の人はそれを受け入れるのか。この理解できないということ、このことは敵の背後に悪魔がいるということの証明である。悪魔の悪は、私たちが想像できないほどの悪なのである。だから理解できないのである。私たちは想像もできない悪を行う悪魔との戦いの中にいる、つまり霊的な戦いのなかにいることを 私たちは覚えておかなければならない。
モーセが神から受けた言葉の中に、こんな言葉がある。
“気をつけなさい。あなたがたの心が惑わされ横道に外れて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。そうでないと、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざし、雨は降らず、地はその産物を出さなくなる。こうしてあなたがたは、主が与えようとしているその良い地から、たちまち滅び去ることになる。”
申命記 11章16~17節
心が惑わされて、横道にそれ、ほかの神々に使えて拝むようになる。これが背教である。不信仰ならまだいい、背教はもう完全に背を向け、自分で何が正しいのかを決める、神の指図は受けないということである。ただ神に背を向け、自分のしたいようにするという側面もあるが、意図的に歯向かうという面もある。それが今の時代を読み解くカギなのではないかと考えている。それはtranshumanismである。人間が人間であることをやめて、新しい人間になろうという動きである。そのために多くの人間の命が失われてもかまわないのである。世界の人口を78億人いる人口を5億人以下にしたいと考えているという話も聞く。ナチスで様々な人体実験が行われていた。その時の科学者の多くがアメリカに逃げてきて、CIAの指示のもとアメリカでの実験をつづけたとされている。MKUltraそれはどのように人間を洗脳し、コントロールできるかというものであった。Transhumanismの発端としてわかりやすい例は1950に闘牛の牛に電気端子を埋め込むと、闘牛の際に牛の攻撃性を抑えられるようになったというものである。こう言うことが人間にも施されようとしている。だから命の尊厳だったり、男女の違いだったり家族という伝統的な価値観を壊そうとしているのである。彼らも永遠の命を求める。それは電子的なデータだけになって、永遠に生きるというのである。そして神をなきものにして、自分たちが神になろうとしているのである。彼らにとって神は邪魔なだけである。彼らの背後にサタンがいることは明らかである。こういうことを目標にしている人たちが今攻撃をしかけている。主が災難を起こされても、文句は言えない状況なのではないだろうか。
私たちの社会も、ますます主の裁きを受ける背教が進んでいることを認識しなければならない。
主はなぜ飢饉を使われるのか。飢饉というのは、私たちには、肉体を維持するための食べ物以外に、霊を維持するための食べ物が必要なのだ。それはいける神の言葉である。飢饉というのは、そういう食べ物がないことを自覚するときである。神は私たちの霊を養う食べ物が与えられないことが、私たちにとって致命的であることを示されるために、飢饉をおこされる。
民が主の前に悔い改め、主のみ言葉を求めることこそ、主のみこころなのではないだろうか。 そうしないと飢饉は激しくなる
- 主の救いの方法はさまざまである
エリシャは、この女に、再びイスラエルに飢饉が訪れるから、この地を逃れて別の地に住みなさいと警告した 主の救いの方法は異なる
サマリヤが飢饉になったとき、主は馬のいななきや音を使ってアラム人の軍隊を逃げさせるという奇跡を起こして、サマリヤを救った。しかし今回はそういう方法はとらないのである。
この飢饉に際して、エリシャはここで、奇跡を起こさなかった。ただほかの土地に逃げよという予言をしただけである。どこに逃げよとも指定しなかった。ただこの地から逃げなさいと告げるのである。そしてまたシュネムの女だけを救われるのである。
主を信じるものだけを救う方法をとられたのかもしれない。それだけ主の怒りが強くなっているからかもしれない。ノアの洪水のことを思い起こす。ノアの時代人々はパーティーに明け暮れ、主を忘れていた人がほとんどだった。そこで主はノアに箱舟を作ることを指示し、ノアの家族だけをすくわれたのである。
主は超自然的な出来事を起こさずに、救いを行われるのである。
神は常に超自然的な奇跡を起こすとは限らない。また一部の人だけを救われることもあるのである。主のお考えは一様ではないことを覚えておくべきである。いずれにせよ主は主に仕えるものに脱出の道を知らせてくださるのである。
- 主は、タイミングに気を配られている。
7年の年月が過ぎて飢饉が終わった。ペリシテ人の地、つまり地中海沿岸の暖かい土地に逃げていたシュネムの女は子供と一緒に帰ってくる。帰ってくると、自分の土地がほかの人に取られていたのであろう。王様に直訴しに行くのである。でも不思議なのはタイミングである。
3 七年たった後、彼女はペリシテ人の地から戻って来て、自分の家と畑を得ようと王に訴え出た。
4,そのころ、王は神の人に仕える若者ゲハジに、「エリシャが行った大いなるわざを、残らず私に聞かせてくれ」と話していた。
5,彼が王に、死人を生き返らせたあの出来事を話していると、ちょうどそこに、子どもを生き返らせてもらった女が、自分の家と畑のことについて王に訴えに来た。ゲハジは言った。「王様、これがその女です。そしてこれが、エリシャが生き返らせた子どもです。」
6,王が彼女に尋ねると、彼女は王にそのことを話した。すると王は彼女のために、一人の宦官に「彼女のすべての物と、彼女がこの地を離れた日から今日までの畑の収穫のすべてを、返してやりなさい」と命じたのであった。
イスラエルの王、ヨラムは、興味本位で、エリシャの奇跡について話を聞きたがっていた。そしてなんとエリシャのもとで使えていたあのゲハジを呼び出して話を聞こうとしているちょうどその時なのである。ゲハジがシュネムの女のこと、その女の子供が死んだけれど、エリシャの奇跡でよみがえったということを話していたであろう、ちょうどその時に、そのシュネムの女が入ってきた。
人は偶然というかもしれない。ほかの誰かの話をしていたら、その人から電話がかかってきたとか。、、、
その女は、王のところに行った女は、ちょうどゲハジが王に自分と息子の話をしている光景に出くわした。王にその時の状況を話した。王は、その女の土地を返し、不在の時の産物も与えるように指示したというのである。
ヨラム王は驚いたに違いない。
偶然というものは存在しない。タイミングにも意味があるのである。私たちもタイミングを大切にしていきたい。何をするかだけでなく、いつそれを行うか。主に聞いてそれを行うことに気を配っていきたい。
4.未来に起こる事
列王記は預言の書なのである。すでに実現された預言もあれば、これから実現される予言もあっても不思議ではない。神様の預言は先の先まで見通されているのである。
1)シュネムの女
かつて子どもを生き返らせてやったあの女というのは、シュネムの女のことである。列王記第2 4章4:8-
エリシャに食べ物を与えたり休む場所を提供した。子供がいなかった彼女は子供を与えられた。その子が死んだとき、生き返ったことを経験した。なぜ彼女の名前が記述されていないのか。裕福で社会的に地位もあったとかかれているのに、、、
ただ子供を生き返らせてやった女とだけ書かれているということは、そのことを思いめぐらすことが肝要だということである。この女は神の人エリシャに心を開き、神に仕えた。この女はそもそも子供がいなかった。しかしそして主の恵みにより子供が与えられたのである。そしてその子は病によって一度死んだ。しかしその子はよみがえったのである。
この女は、誰であろうか。私たちキリスト者を指示しているのではないだろうか。私たちは子供が与えられる資格はなかった。神の子供を与えられる資格はなかった、しかし恵により神の子、イエスキリストを与えられたのである。しかしそのイエスキリストは病、罪という病を引き受けることによって十字架の上で死んだ。しかし3日後に、よみがえったのである。
2)7年の飢饉
この7年間の飢饉というのはダニエル書9:27の70週の中の最後の1週つまり7日間そのものではないにしても、それを予想させることを意図しているのではないかと私は考えている。この7日間というのは、7年間のことであり、それはいわゆる大患難時代と言われているものである。これはイエス様がマタイの24章で預言されていた終わりの時代のことである。
この大患難時代は前半と後半に分かれるが、マタイの福音書で言うと前半が24:4-14, 後半が24:15-31のである、前半についていうと、その時には飢饉に加え、偽預言者が多くたち、戦争が多くのところで起きるとされている。
“わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。
また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。”
マタイの福音書 24章5~7節
後半はかなり複雑であるが、これがもっとひどいことになるといわれている。
黙示録で言えば、この大患難時代は、6章から19章にわたって展開されている。
- 携挙
しかし神は、キリスト者を守られるのである。携挙である。これは第1テサロニケ人への手紙4:16~で書かれているキリストによる空中にあげられる(携挙)を指示しているのではないかと思える。
“すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”
テサロニケ人への手紙 第一 4章16~17節
携挙において真のキリスト者は災難を免れるのである。そして7年の大艱難時代が終わって、キリストが文字通り地上に再臨されるときに帰ってきてまた土地を受け継ぎ、そこに住むのである。それはすなわち千年王国のことだと思われる。
シュネムの女は、この大患難時代を前にして、主から警告を受け、安全な場所に避難するキリスト者のことを示しているのである。これは私たちキリスト者への希望のメッセージの箇所なのである。
主は背教の時代にあって、世に警告を与えられる。それは飢饉や戦争、地震、偽りの預言者などである。しかし方法やタイミングを考えられてキリスト者を守られるのである。
だからほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。1テサロニケ5:6