10-24-21 列王記 第二 6章15~23節
先週主に助けを求めることができるということを通して、
主は自分の身を挺して私たちを助けるお方であるということをしり、閉塞の中から脱却して家を建て続けることの重要性を学びました。
今日は、主がどのように戦われるのかを見ていく中で、私たちが何をすべきなのかをみていきます。
背景
8さて、アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、彼は家来たちと相談して言った。「これこれの場所に陣を敷こう。」
9そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人を遣わして言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラム人が下って来ますから。」
10イスラエルの王は、神の人が告げたその場所に人を遣わした。神の人が警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。
11このことで、アラムの王の心は激しく動揺した。彼は家来たちを呼んで言った。「われわれのうちのだれがイスラエルの王と通じているのか、おまえたちは私に告げないのか。」
12すると家来の一人が言った。「いいえ、わが主、王よ。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」
13王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めよ。人を遣わして、彼を捕まえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる」という知らせが王にもたらされた。
そこで、王は馬と戦車と大軍をそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。
1,敵に取り囲まれていることを知れ
15神の人の召使いが、朝早く起きて外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若者がエリシャに、「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう」と言った。
時は、イスラエルとアラムが戦っているときと8節に書かれています。エリシャはドタンというイスラエルの北の町にいました。
イスラエルの神の人(エリシャ)のしもべが朝起きると、敵に包囲されていることに気が付いた。
彼の驚きはいかばかりだったでしょう。
朝起きて外を見ると、敵が自分たちを包囲しているのを見たのです。
エリシャのしもべはこの敵に気づいたのです。
恐ろしいとはこのことです。すがすがしい朝を迎えと思って外を見ると、敵がそこら中に潜んでいるのに気づく、この落差は驚愕です。
私たちも今戦いの中にあります。でも多くの人はその戦いに気づいていません。
敵は私たちの不意を突いてくるのです。私たちの気のゆるみをついてくるのです。
私たちの中でも、敵に包囲されていることに気が付いている人は少ないのではないでしょうか。
まず敵に包囲されていると気づくこと、このことが重要です。
特に今の時代、私たちに対抗する敵の勢力はものすごいのです。悪魔は今も働いており、私たちを破壊しようとしていますから、私たちは地獄の勢力に包囲されていることを見逃してはなりません。
2,主は私たちが見えるようにしてくださることを知れ
16すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。
17そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
それを聞いたエリシャはどうしたでしょう。
「恐れるな」です。イエス様も何回も言われたこの言葉です。
この根拠は何でしょう。「私たちとともにいるものは、彼らとともにいる者より多いのだから、」
私たちは主がともにいるから、主は敵より強いから、恐れるなと信じています。
でもそれだけではないのです。
つまり彼らを包囲している敵の馬と戦車の軍隊は、火の車と戦車によってさらに包囲されているのを見。
私たちには主以外にもともにいる者がいるのです。
そしてそれは敵よりも多いのです。み使いです。
敵はドタンの町を包囲していました。でもみ使いはその町の周りにある山に満ちていたのです。
み使いは、実際に存在し、働いてくださっているのです。
敵の数より主に仕えるみ使いは多く、はるかに強力なのです。
だから、敵を目にしても、恐れる必要はないのです。
そして主に祈ったのです。
エリシャは、この敵に対抗するためではなく、しもべのために祈りました。
私たちも、同じクリスチャンのために祈っていますか。主を信じる兄弟姉妹が、主の軍勢を見られるように祈っていますか。
そして、しもべが目を開いたとき、彼は敵の軍勢だけでなく、主の軍勢を見ることができたのです。
金曜日に走っているとき、ひざが痛み出し、走るのをやめて歩くことにしました。
そして本日の礼拝の聖書個所、敵が私の周りを包囲している、のことを考えました。
その時わかったのです。;
走る前に、普通の預金では、このインフレに対抗できない。将来が不安だ。何か別の方法はないだろうかと考えていたことを思い出しました。私たちは恐れに囲まれているのです。
でもその日の朝、み言葉を読んでいるとき、次の聖書の箇所が示されたことを思い出しました。
自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。“マタイの福音書 6章19
自分のために天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴をあけて盗むこともありません。 6章20節
私たちは敵に囲まれています。敵は不安や貪欲を使って私たちを敵の思い通りの方向へコントロールしようとしてきます。でもその敵の周りには、主の軍勢がいることも忘れてはいけないのです。
神の国とその儀をまず第一に求めなさいマタイ6:33です。
私たちの直面する状況において私たちがどのように祈るべきかが教えられているのだと思います。
この問題を解決してくださいと、祈るだけではなく、主の解決策も見えるように祈っていいのです。
そして、主の信仰が小さくて恐れている人々のために、祈ることができます。彼らが主の軍勢を見ることができるように祈ろうではありませんか。
3,主は敵の目を見えなくし、導いてくださることを知れ
18アラム人がエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうか、この民を打って目をくらませてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って目をくらまされた。
19エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってあげよう。」こうして、彼らをサマリアへ連れて行った。
20彼ら主は敵の目も見えるようにしてくださるがサマリアに着くと、エリシャは言った。「主よ、この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開き、彼らが見ると、なんと、自分たちはサマリアの真ん中に来ていた。
アラムが攻めてきたとき、エリシャは祈りました。
敵の目をくらませてください。そして主はその通り、敵の目を見えなくされるのです。
私たちの敵の目を見えなくするということを主はしてくださるのです。
これを私たちが適用しないほうはありません。
目が見えなくなった敵に向かって、エリシャは、こちらの道ではない。あちらの町でもない。あなたたちが行くべきなのは、この道ではない、ドタンという町ではないというのです。
探している人のところへ連れて行ってあげようといって彼らをサマリアまで連れていくのです。彼らが捜していたのは、エリシャでした。サマリアでエリシャに会えるといったのです。
そして、サマリアに着いたとき、エリシャが見えるようにしてくださいと祈ったので、アラム人の目は見えるようになった。彼らはエリシャにも会えましたが、サマリアに連れてこられたことに気が付いたのです。北イスラエル国の首都である。つまり、アラムの大軍はイスラエルの捕虜になって首都に連れてこられたということである。
主は、イスラエルの軍の働きなしに、血を流すこともなく、アラムの大軍を捕虜として、サマリアの首都まで連れてこられたのです。
主は主に反するものにも、道を示されます。
罪の中。暗闇の中を歩いていた私たちは、自分が暗闇の中を歩いていると気が付いたとき、どうしたでしょう。エリシャの声をきかなかったでしょうか。私についてきなさい。あなたが探している人に会わせてあげる。私たちを導いてくださったのは誰だったでしょう。
一方、エリシャのしたことにも注目しなければなりません。アラムの大軍です。目が見えなくなったといっても、いつ目が見えるようにならないとも限りません。その恐怖を抑え、エリシャは彼らをサマリアまで連れて行ったのです。彼にはアラムの軍勢を取り囲む主の軍勢がいることを信じていたのです。この勇気ある行動。信仰がなければとてもできません。
4,主は罪びとにもご自分がどういう方であるかを知らせ、恵みを与える
21イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ち殺しましょうか。私が打ち殺しましょうか。わが父よ。」
22エリシャは言った。「打ち殺してはなりません。あなたは、捕虜にした者を自分の剣と弓で打ち殺しますか。彼らにパンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」
23そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らが食べたり飲んだりした後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それ以来、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入しなかった。
イスラエルの王は、彼らを撃ち殺そうという。しかし、エリシャは捕虜なのだから、食料を与え返せというのである。主の恵みをほうふつさせる話ではないだろうか。
侵略する目的で襲ってきたアラムの大軍を捕虜としてとらえ、サマリアまで連れて行ったうえで、飲み食いさせて、無事に返す。
サマリアという名前は、キープ、維持するという意味の言葉である。主は敵であっても彼らの命を維持され、見守ってくださっているのである。
主イエスは、言われました。
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。“ヨハネの福音書 14章6節
先週お話ししたコリ―テンブンの話を少しします。
オランダがドイツに降伏して、ドイツ人が街を徘徊するようになる。コリーの家も探索され、ユダヤ人をかくまっている容疑などで逮捕され、ハーグの収容所に移送される。2/29/1944
朝になると食べ物が支給され、同じ牢屋にいるものと話もするが、みな外界のことについて話したくない。すぐ沈黙になった。
3/16/1944 彼女は熱が出て、独房に移される。そこは6歩行ったら突き当たり、幅は2歩の部屋、
食べ物や薬は支給されても高熱があって取りに行けない。その間に食べ物は持っていかれてしまう。そういうこともあって、なかなか回復しない。牢屋に入っていると、時間の感覚がなくなるそうです。コルセットの針金で、壁にカレンダーを刻んで毎日を過ごしたそうです。4月15日はプリズンでの誕生日と記録したそうです。4/17初めてシャワーが許されたそうです。そこにはたくさんの女性がシャワーの順番を待っていて、誰も言葉を発せなかったけれど、誰かがいるということは彼女に力を与えてくれたそうです。
5月に後半になって、尋問を受けることになって、独房を出る。彼らはレジスタンスの活動を検挙しようと情報収集を行っていたのだ。食べ物の配給を襲って盗んでいたのではないかとかを聞かれたが、コリーはそういうことはしていなかった。
ほかにどんな活動をしていたのかと聞かれ、教会で心に問題のある人の話をきいていたといった。時間の無駄だと言われた。でも彼女は本当のことを言いましょうかといった。真実を知りたいと彼は言う。
神様の視点は私たちとは違うので、神様が聖書をくださるまでは私たちは何もわからなかった。と言ってしまいました。聖書には神様は私たちを大切なものとしてくださると書いてあります。でもそれは私たちが強いとか頭がいいということではなく、ただ神様が私たちを作ってくださったからだっていうんです。刑務官は、もうこれでおしまいだと言って、コリーを独房に戻しました。
彼女は、失敗したかも、言い過ぎた。と思ったそうです。自分の運命がこれで悪い方向に行ってしまうことを心配しました。
でも次の日、同じ刑務官が来て、また尋問をされました。それが何日か続いてあるとき、聖書にはあとどんなことが書いてあるのかを聞かれたのです。光がこの世に来たことを話す。私たちは暗闇の中を歩む必要がない。あなたの中に暗闇はありますか。と勇気を振り絞っていった。しばらくの沈黙の後、彼は、大きな暗闇があるといいました。彼は彼の奥さん、子供、住んでいる町について話し始めた。先週も爆撃があった、家族が生きているかどうか恐ろしいといった。彼女はイエスキリストが光であって、そんな暗闇の中でもイエスは光を与えてくれると話したのです。その後、彼女のシャワーは月に―2回だったのが週に2回となり、待遇は良くなったそうです。
主は戦われています。私たちもエリシャのように主の戦いに参加していることを覚え、私たちは、敵に囲まれていることを忘れてはいけません。でもさらに主の軍勢がそれを囲んでいること、主は敵の目もくらましてくださること、そして敵をも救いの道に導いてくださることを知りましょう。主の言葉に従ってまいりましょう。