ルカの福音書に見られる携挙

携挙という言葉を聞いたことがあると思います。携挙はどこに書いてあるかと聞かれることがあります。もちろんテサロニケ人への手紙第一の4章に書かれているのですが、それ以外にも記述があります。今日はルカの福音書の中の箇所を見てみたいと思います。

「また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして、殻を消えない火で焼き尽くされます。」ルカの福音書3:17

これはバプテスマのヨハネが、キリストが何をされるのかということについて話している箇所です。まず「また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ」というのは何を意味しているのでしょうか。脱穀場というのは、麦を砕くところです。収穫された麦を円形において、牛などにそこを回らせるのです。牛はそこを回るときに、麦を踏みますから、麦が砕かれて殻とか悪い部分とかいろいろな部分に分かれるのです。

私たちの人生はある意味、脱穀場といえるかもしれません。人生を生きていく中で、つぶされてちぎられてしまうのです。その当事者にとってはたまらない苦痛であり、悲しみなのです。でもその結果空虚なものは取り去られるわけですから結果的には良いことだったということが、後になってわかるのです。

「掃き清め」というのは、原語に忠実ではありません。原語は完全にという言葉と浄化する(カタルシスのもとになった言葉)という言葉が使われていますので、完全に浄化して、と訳すべきです。ですから踏みつぶされた麦が完全に仕訳され、殻や悪いものと実を分けられるということであって、そこに取り残しのごみは残らないのです。

私たちはどちらかになるということです。倉に納められるのか、それとも火で焼き尽くされるかなのです。しかもその火が消えない火だと書かれています。これはゲヘナであり、黙示録の表現で言えば火の池であり、俗的な表現で言えば地獄なのです。そこには悪魔や反キリスト、偽預言者も投げ込まれます。

麦の治められる倉とは何を意味するのでしょうか。倉ですから、本来の役目を果たすためにしまっておくところです。麦と認められたキリスト者は、どこかにしまっておかれるのです。最後の審判の前に主の前に正しい者たちをしまっておく、これは携挙でなくて何でしょう。

テサロニケ人への手紙 第一 4章16~17節にこう書いてあります。

「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、

それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

携挙というのは、キリストの空中再臨です。キリストが天から下ってこられ、キリストにある死者がまずよみがえり、そのあと生き残っている者が彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会う、書かれています。これがまさしく倉に納められることなのです。そして世の中は大患難時代を迎え、ハルマゲドンの戦いで地上の悪が滅ぼされ、キリストが地上に降りてこられるのです。(地上再臨)その時、倉に納められていたキリストにあるものも、キリストとともに降りてきて、千年王国が始まるのです。キリストにあるものは王キリストに忠実な祭司として、新しい世界を統治していくのです。

なんという光景ではありませんか。これが福音の重要なポイントなのです。