第2列王記8:7-15 ヨハネの福音書 18章33~37節
今日の舞台はアラム、すなわちシリアであり、ベン・ハダドというシリアの王の重臣、ハザエルの物語です。ベンハダドは紀元前841年に死んだとされています。自分たちの統治者がいつ亡くなるのか、国はどうなっていくのか、というのは、今を生きる私たちの関心でもあるのではないでしょうか。ハザエルという名前、神は見られるという意味があります。国難に瀕した状態にある私たちも、神様が何を見ておられるのかを知っておく必要があると思います。
まず今日の箇所以前に、ハザエルという男は出てきていたことから確認したいと思います。
かつて、エリシャの師匠であったエリヤはアハブの罪が甚大でイスラエルの国の人々がみな悪に染まっていっている状況で、主からの言葉を受けました。
“主は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。”列王記 第一 19章15節
つまりエリヤ、すでにアラムへ出かけて行って、ハザエルに向かって、あなたは将来王になるとして油注ぎをしていたのです。
主は異国の王についても油注ぎをして、王として認めるということです。でもこの油注ぎは悲しい油注ぎでした。神に従わず神に対して罪を犯し続けるイスラエルをこらしめるために、アラムという敵国を使うためのものだったからです。
いずれにせよハザエルはエリヤによって油注ぎをされた時から、自分が王になるということを自覚していたのです。
7,さて、エリシャがダマスコに行ったとき、アラムの王ベン・ハダドは病気であった。すると彼に「神の人がここまで来ている」という知らせがあった。8,王はハザエルに言った。「贈り物を持って行って、神の人を迎え、私のこの病気が治るかどうか、あの人を通して主のみこころを求めてくれ。」
病気で臥せっていたベンハダド王は、ちょうどシリアに来ていたエリシャが来ていることを知り、家臣のハザエルにこの病気が治るかどうかを尋ねさせたのです。
9,そこで、ハザエルはダマスコのあらゆる良い物をらくだ四十頭に載せて、贈り物として携え、神の人を迎えに行った。彼は神の人の前に来て立ち、こう言った。「あなたの子、アラムの王ベン・ハダドが、『この病気は治るであろうか』と言って、あなたのところへ私を遣わしました。」
1. エリシャは見ていました。
ハザエルに会ったエリシャは、2つのことを見ました。
1)王の死を見ていました。
10,エリシャは彼に言った。「行って、『あなたは必ず治る』と彼に告げなさい。しかし、主は私に、彼が必ず死ぬことも示された。」
エリシャは、治ると告げなさいという。しかし彼が必ず死ぬことも示されたと訳されている。これは、病気は治るという正式な回答を与えなさいという言葉のあと、でも王は死ぬ。つまり別の理由で死ぬといったのである。
2)イスラエルの受難を見ました。
11,神の人は、彼が恥じるほどじっと彼を見つめ、そして泣き出したので、
12,ハザエルは尋ねた。「ご主人様はなぜ泣くのですか。」エリシャは答えた。「私は、あなたがイスラエル人に害を加えようとしていることを知っているからだ。あなたはイスラエル人の要塞に火を放ち、その若い男たちを剣で切り殺し、幼子たちを八つ裂きにし、妊婦たちを切り裂くだろう
エリシャは、さらにハザエルを見つめたのです。人を見つめすぎると、見つめられた人はもう見ないでほしいとなることがありますが、ハザエルが恥じ入るほどだったということは、何か後ろめたいことがあったということを、それはおそらく王の暗殺のプランが頭にあったから恥ずかしくなったのです。そしてエリシャは泣いたのである。答えは衝撃的なものでした。ハザエルがイスラエル人に害を加えるからだというのです。イスラエル人の要塞に火を放ち、その若い男たちを剣で切り殺し、幼子たちを八つ裂きにし、妊婦たちを切り裂くだろう。」むごい光景が描写されます。つまりエリシャはアラムの司令官、ハザエルが、エリシャの国イスラエルに甚大な災いをもたらすことを具体的に幻としてみて、それで泣いたのです。
13,ハザエルは言った。「しもべは犬にすぎないのに、どうして、そんな大それたことができるでしょう。ハザエルはなぜ自分がイスラエル人に害を加えるようになるのかを聞くと、エリシャは答えます。
ハザエルは、まさに自分が将来することを見透かされた気がしたのではないでしょうか。そこで、あえて、自分を犬と卑下して聞くのです。ベンハダド王の犬であって、王でないからそんなことができません。と
それにこたえてエリシャは、13節後半
しかし、エリシャは言った。「主は私に、あなたがアラムの王になると示されたのだ。」
ハザエルは、昔エリアに言われたように、今エリシャにも再び王になると言われたのです。神の人から、あなたは王になると言われたら、皆さんは何を考えますか。いつ?と思うでしょう。回復するかどうかを心配しているほどの重病の時こそ、チャンスだと思わないでしょうか。今なら死んだとしても誰にも怪しまれない。と考えたのではないでしょうか。彼は神の時を待つことができず、行動に及ぶのです。
14,彼はエリシャのもとを去り、自分の主君のところに帰った。王が彼に、「エリシャはあなたに何と言ったか」と尋ねると、彼は「あなたは必ず治ると言いました」と答えた。15,しかし、翌日、ハザエルは厚い布を取って水に浸し、王の顔にかぶせたので、王は死んだ。こうして、ハザエルは彼に代わって王となった。
ベンハダドは、何事もなかったかのように、アラムに帰り病床の王に治りますと言われましたと告げるのです。しかし次の日、病の王に、水に浸した布をかぶせて、窒息させるのです。そして病で死んだようにして、自分が王になったのです。
エリシャには、自分が王になるといわれました。でもいつかはわかりませんでした。空白がありました。でもそれを彼は自分で埋めたのです。おそらく今がその時だ。今自分が行動すれば王になれる。そう思って暗殺したのです過去にも王になるといわれた人がいました。それはダビデでした。でもダビデは違いました。当時王であったサウル王を殺す機会が2度もあったのに、しなかったのです。そして神の時を待ちました。でもハザエルは神の時を待てなかったのです。
3.イエスは見ておられます。
エリシャは王の死、そしてイスラエルの壊滅を予見して涙を流されました。イエスキリストも未来を予見し、エリシャと同様涙を流されました。
- エルサレムの崩壊
ルカの福音書 19章41~44節
エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。
「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。
やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、
そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」”
これは神の子イエスキリストがエルサレムの受難を思って泣かれ、口にされた言葉であります。
神に従わないイスラエルの人々、何度警告しても聞くことはなく、自分の道を進み続けるイスラエルに対して、神の裁きが降るしかないことを予見して、イエス様は泣かれたのです。
実際エルサレムは紀元70年、ローマ軍によって徹底的に破壊されます。
イエス様も神に逆らうイスラエルの壊滅を事前に見ておられたのです。
イエス様が神様であるのなら、なぜ泣いたりしないで、何とかできないのかと思う方もいらっしゃるでしょう。なぜ泣くだけなのか。それは、イスラエルが神の前に罪を犯したからであり、その罪を悔い改めないなら、罰を与えるしかないからなのです。
神は義なる方、正しい方というのは、そういうことなのです。いくら神の作られた国であろうと、神が作られた人間であろうと、人には自由意志が与えられているからです。人が運営していく以上、その国が悪の道にはまり込んでしまったら、その責任は人が取らなければならないのです。
神は未来を見ておられます。私たちが神に従わないがゆえに、神は敵国を用いられて破壊されることを赦されているのです。
- 王キリストの殺害
ユダヤ人のヒーローとして、担ぎ上げられたイエスキリストは、悪や不正を暴かれることを恐れたユダヤの宗教界の権力者たちによって殺されようとしていました。とらえられたイエスは、ローマのピラトのもとへ連れてこられて、ピラトから尋問を受けます。
36イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」37そこで、ピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」” ヨハネの福音書 18章36~37節
イエスキリストは、王であられます。この世の王ではなく、神の国の王でいらっしゃいます。その王をローマ人はユダヤ人の扇動に乗せられて殺してしまったのです。私たちもその場にいたらどうでしょう。私たちも、イエスを殺せと叫んでしまっていなかったでしょうか。
神は未来を見ておられます。 人が神に従わず、悪の道を進んでいき、真実を証しするために遣わされた王、イエスキリストさえも殺してしまうのを。
4,私たちの希望
エルサレムを見て、泣かれた後、イエス様は宮に入り、商売人たちを追い出して彼らに、こういわれました。
“それからイエスは宮に入って、商売人たちを追い出し始め、彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」”ルカの福音書 19章45~46節
イエス様は、神から離れようとするイスラエルの元凶をこう指摘されたのです。ビジネスである前に、まず神の国を第一とする祈りの家でなければならないと。
主は不義なるものを裁かれるために敵をも用いられます。でもそこに主の涙があることを忘れないでください。山の上にある町、燭台の上に置かれた光である私たちはビジネスやこの世を優先するのではなく、国全体世界全体が祈りの家になれるよう祈っていく必要があるのではないでしょうか。神様は祈りに答える中で、私たちを正しい道に戻してくださるのではないでしょうか。