イエスを認めるという事(ルカ12:8-12)

イエス・キリストは、憐れみ深いお方であり、人の苦しみを共に担ってくださるお方です。でも彼は使徒信条にあるように、生きている人も死んでいる人も裁くために帰ってこられる方でもあられます。イエスキリストは悪を放置される方ではありません。神は義なる方、正しい方、公正な方でもあられるのです。

   どうやら、この地上での人の命というのは、全体のごく一部のものでしかないようです。だから、この地上にいる間に、イエス様を認めることが重要なのです。認めるか認めないかによって、永遠の後戻りできない2つの道を選ぶことになるのです。これは究極の選択です。今は見えないけれど、今の選択によって、先が大変なことになるからです。今日はこの究極の選択について考えてみます。

1、イエスを認めることの重要性

8,あなたがたに言います。だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。

9,しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。

1)プレッシャーがあっても認められますか

イエスが悪霊につかれた男を解放したことに関し、律法学者たちはイエスに対して激しい敵意を抱いていたこと、それを知って群衆がイエスの周りに集まっていることを思い出してください。このような状況の中で、イエス様は弟子たちに言われたのです。弟子たちの気持ちはどうだったでしょう。周りにいる群衆は、権威ある人の意見に簡単に左右されます。律法学者たちの意見に左右され、イエスは悪霊の手先だと、言いだしても不思議ではありません。でもイエスは、そんな弟子に、イエスの側につくものとして、自分を立てなさいと言われたのです。「人々の前で私を認めるなら、人の子もその人を認める」と。

 実際、少し後で、ペテロという弟子は、そんな圧力の中、何が起きてもイエス様を裏切らないと誓いました。でもイエス様が逮捕されたと知った途端、イエスという男なんか知らないと、シラーっと言い切ったのです。

これは私たちに言われている言葉でもあるのです。私だって、そうなるかもしれません。人の弱さ、、、

私たちも自分の命が、自分の家族の命が危険にさらされたとしても、イエス様こそ自分の師匠だといえるでしょうか。裏切らないでいられるでしょうか。自分がクリスチャンであることを知られたくないとき、自分に不利益になる時、

社会の非キリスト教的な価値観を受け入れるとき、そうすることが難しくなるのではないでしょうか。

2)神の裁きの座で起こる事だと知っていますか。  

イエスを認めるなら、その人のことも認められるが、知らないというならば、み使いの前で知らないといわれる。み使いたちが出てくる場についてイエス様はすでに示されていました。ルカの9:22-26

ペテロがイエスを神のキリストだと宣言した後、イエス様はご自分の受難と復活を明かされました。そしてとても重要なことを言われたのです。イエスについていきたいと思うものは、自分を捨て、自分の十字架を背負ってついてきなさい、自分を捨てるものは命を救うと。そしてこの言葉を言われたのです。

「誰でも、私と私の言葉を恥じるなら、人の子もまた自分と父と聖なるみ使いの栄光を帯びてやってくるとき、、その人を恥じます」

父と子とみ使いたちが栄光を帯びてやってくるとき、それはイエス様が再臨されて裁きをされるときのことなのです。今イエスを認めるかどうかというのは、イエスが再臨された時の裁きに関わることだという事なのです。ですから、イエスについていくというのは、未来の天国へイエスとともに行くことを意味されていたのです。

3)イエスを選択するということは、自分を捨てるということだと知っていますか。

 だから、再臨の時に、天国へ行くためには、イエスの言われた「自分を捨てる」ということが、大切なポイントになるのです。イエスを認めるということは自分を捨てるということなのです。

4)イエスを認めるということは、イエス様と同じことを語ること

イエス様を認める。それはただ認める、あ、知ってるという軽い意味ではありません。

新共同訳だと、言い表す、ですが、ギリシャ語のもともとの意味は、一緒に、同じ結論を宣べる、つまりみな意見が一致しているからそれを宣言するという意味です。イエス様と同じ意見を自分も持っているということを宣言するということです。イエスと同じことを語るということです。

イエスの語ること、その結論とは、何でしょう。全知全能の天地の創造者である方が、あなたを救いますということではないでしょうか。アッシジのフランシスコという13世紀のイタリアの修道士のお祈りがイエスのおっしゃることをかなり表現していると思います。

主よ、わたしを平和の器とならせてください。
  憎しみがあるところに愛を、
  争いがあるところに赦しを、
  分裂があるところに一致を、
  疑いのあるところに信仰を、
  誤りがあるところに真理を、
  絶望があるところに希望を、
  闇あるところに光を、
  悲しみあるところに喜びを。

このようにいのることが、イエスと同じ言葉を語ることになるのではないでしょうか。

2,イエスを認める方法は聖霊に聞くこと

このように、イエスと同じことを言えるかどうか、心配になってきます。でも心配はいらないのです。それは聖霊が私たちに教えてくれるからです。イエスは次のように言われています。

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」  ヨハネの福音書 15章26節

1)聖霊は助け主である。助けてくださるのであって、決して拒否したり、捨てたりされることはないのである。

2)聖霊は、真理の御霊であって、真理しか語らないのである。間違いはないのである。その方が、イエスがどういう方であるかを証言してくださるのだと言っているのです。これほど確かなことがあるでしょうか。

聖霊に頼りさえすれば、聖霊がイエスについて証言してくれるので、イエスを認められるようになるのです。

10,人の子を悪く言う者はだれでも赦されます。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されません。

聖霊は非常に大切にしなければなりません。そしてイエスは次のような驚くべきことを告げられるのです。1)人の子を悪く言っても赦される。イエスキリストを悪くいても赦されるというのはどういうことでしょう。

1)聖霊は神だからである。  

第一の理由は、人と聖霊(神)の違い。ここで、人の子というのは、イエス様です。神の子でなく、人の子と言っているのは、人間としてのイエス様を強調しています。そもそもイエス様は、完璧に神様であられるとともに完璧に人間であられました。でも生まれるときからずっと聖霊がいてくださったのです、聖霊がマリアに臨んで、生まれましたね。ヨハネのバプテスマを受けられるとき、イエス様の上に、聖霊が鳩のような形をして降りてこられました。そしてそのあと、聖霊によって荒野に導かれて悪魔の誘惑を受けられたのです。そして弟子たちが、悪霊をイエスの聖名によって悪霊を追い出すことができた時も、イエス様は聖霊によって喜びにみたされ、父なる神に感謝するのです。そして、弟子たちに父なる神が、聖霊を弟子たちに与えてくださると告げるのです。このようにイエス様は一日たりとも御霊の助けなしに行動されたことはなかったのです。

イエス様は自分自身からは何事もなされず、御霊(聖霊)の助けと力を必要とする道を選ばれたのです。ですからここで、人の子、つまり人間としてのイエス、ヨセフとマリアの子としてのイエスをわるくいうことはまだ赦されるけれど、イエスを導いてくださってきた聖霊なる神を冒涜することは赦されないといわれているのです。

人はあくまでも人なのです。でも神は人と全く異なる存在です。私たちはその線をしっかりと引かなければなりません。神様である聖霊様の導きを冒涜してはいけないのです。私たちが毎日の歩みで聖霊に従っているかどうか、それが問われているのです。

2)聖霊は真理であるからである。 良いことを悪とすることは赦されない。 

もう一つ、マルコ3:28-30を見ると、イエスがこのように言われた理由が書かれています。 

「まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒瀆することを言っても、赦していただけます。しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。このように言われたのは、彼らが、「イエスは穢れた霊につかれている」と言っていたからである。  マルコ 3章28~30節

イエスがいろいろな奇跡をおこなわれる。病を癒したり、悪霊につかれている人を解放した。それは聖霊の力によってなされていた。聖霊の力が働いていたことを覚えなければならない、その結果、よいことが起きたのである。苦しんでいるものが苦しまなくなる、心乱れているものが平安を得るようになる。そのような良いことが起こったのである。

しかし、権威ある者たちは、それが悪霊によってされていると言ったのである。よいことが悪霊によって起こされる?ということは悪霊は悪くないときもある、、、

ここで価値観の混乱が起こされているのです。悪いものをよいものと言い換え、よいものを悪いものという、光を闇という。悪を善という、、、

これは、イザヤを通して、神が嘆かれていることなのです。

「わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。」  イザヤ書 5章20節

価値観の変換、これは単なる間違い、罪ではない。聖霊は、真理の御霊だと、読みました。正しいことを教えてくださいます。善を教えてくださいます。でもそれに逆らうということ、よいことを悪いことといい、聖霊その方をも悪い方という、これは、まさに神様が嘆かれることなのです。

3,聖霊は、私たちの言葉を与えてくださる。

11,また、人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。

12,言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」

聖霊による示し、この方法が救いの唯一の方法なのです。聖霊は常に私たちに語り掛けてくださいます。

今しようとしていることは正しいことか。そうではなく、こうすべきではないか。今あなたはここで何もしようとしていないが、こうすべきではないか。そういう促しを受けることはあると思います。

 私たちが権力者のところに出た時にも、聖霊は言うべき言葉を与えてくださるのです。聖霊を神として、絶対的な神として信じ、善悪について決してぶれないようにすること、そのことが重要です。そうしていれば、聖霊なる神様は必ず言葉を与え理解を与えてくださるのです。

イエスを認めるということへのプレッシャーがこれからますます高まっていくでしょう。そんなときここでイエスが弟子たちに言われたことを思い出してください。恐れてはなりません。天国に行くのかゲヘナにいくのか。究極の正しい選択をしていくならば、長い目で見て祝福が約束されているのです。聖霊の促しの中で生きていれば、イエスを認めるために聖霊が助けてくださるのです。祈りましょう。